平成新訳「通潤橋仕法書」

  これは、通潤橋創建百五十年を記念して出版された記念誌の第5章を抜粋したものです。原本に挿 入された写真や解説図を都合により削除しておりますのでご理解しにくい部分が多々在るかとは存じますが、どうかご容赦いただけますよう、お願い申し上げま す。
(原本は山都町教育委員会で頒布されております。TEL 0967-72-0444 )



 第一節 平成新訳「通潤橋仕法書」

 完成の日、白装束で橋の中央に端座した布田保之助。支保工がいっきに取り崩され、立ちのぼる土煙の中から、ついに通潤橋が姿をあらわした。という伝承は工 事の順序からすれば、ありえない。しかしそれは、事実であるかのように定着し、通潤橋のロマンとして聖域を守っている。

 工事内容を伝えた資料として、布田保之助の直筆だといわれる「通潤橋仕法書」がある。基本工種とその留意点が簡潔に記してあり、石橋の技術資料としては、 国内でも貴重な文献である。しかし、具体的に工事の様子を読み解こうとすれば、つじつまの合わないことがらや空白の時間に翻弄され、行き詰まる。

 後世の人が工事の様子を再現するためには、想像に頼らざるをえなかった。そして情緒たっぷりに脚色されていく過程で勢い余り、史実をゆがめてしまったものも多い。その結果、通潤橋がどのようにして造られたのか、わかったようで、しかして謎が多い。

 「そのままのほうが、よいのかもしれない」という声に妥協することは、難しい。
人間社会の苦悩の中で、どのような叡智と努力を背景に、通潤橋が地上に姿をあらわしたのか、事実をそのまま伝えるべきである。

 その上で通潤橋が、地球の歴史上数少ない平和の象徴であり、「本物の美しさ」そのものであることを裏付けたい。21世紀の人類にとって通潤橋が、世界遺産をはるかに超える貴重な財産であることを、証明すべき時期なのである。

 そして、今後も人間の創り出す地球の財産が、永遠の価値を持つ「本物」であるために、通潤橋の築造技術と理念が、大きな指標になってほしいと、心から願うものである。
この章では「南手新井手記録」をおもな裏づけ資料として、「通潤橋仕法書」をドキュメンタリー風に再現し、技術的な事実を追ってみた。曖昧な部分には施工実績による現実論を加え、通潤橋の工程と工法を「推理」していることをお断りしておく。

 できるだけ読みやすくと心がけるものの、内容は工事の説明である。数字や専門用語が濫用に近いことをご容赦願いたい。面倒な場合は「おはなし」のコラムだ けでも、お伝えしたいことの80%は、ご理解いただけるかと思う。この推理に対する反論や、新たな仮説の出現に期待し、より研究が深まれば幸いである。

 なお、長さの単位は尺貫法をメートル法に換算して使用した。小数点等を状況に応じて適宜まるめたが、数値の前に「約」という副詞をつけるべきところ、省略したものもある。年代については元号を使用したが、章末に西暦との対比表を記した。




 第二節 白糸の里人を救う

 下益城郡砥用手永の篠原善兵衛が、笹原川の水を轟川に引き、さらに千滝川の水も合わせて東砥用まで送り、水利の不便を救おうという壮大な計画を実施した。が、笹原の堰から矢部の畑村まできたところで洪水の大被害にあい、工事は中断され、水路は残された。

 長年の窮乏に苦しみ、疲弊しきった白糸のすべての里人を救いたい。保之助はこの水路を利用し、轟川に石橋を架け白糸の村々に水を通すことを、決意した。弘化4年に完成した霊台橋の大きさと高さを見て、実現を確信していた。岩尾城の東側から水路を引けば、轟川の川底から約30mの高さで出会う。霊台橋のよう な大石橋を架け渡すことができれば、白糸の台地のすべてが、命の水で潤うのだ。

 霊台橋を造った宇一と丈八の兄弟を現地に招き、説明した。ところが保之助が要求する石橋は霊台橋より10mほど高く、はるかに大きなアーチを架けなければならない。兄弟は一目見て迷わず、霊台橋を超えるアーチの眼鏡橋の建設を断った。

 いぶかる保之助には、高さ3.64mの基礎石垣の上に直径18.2m(高さ9.1m)という、小さな眼鏡橋ならば請負うことを伝えた。

************ おはなし 1***************************************************
  宇一と丈八は、霊台橋のアーチの大きさが精神的な限界を超えていたことを、兄の卯助とともに知っていた。

 兄弟の師匠である岩永三五郎が架けた最も大きなアーチは聖橋(矢部町)であり、直径20mに満たない。当時、薩摩にいた師匠の指導を仰ぐことができないま ま、これまでに見たこともない巨大な石橋(霊台橋:アーチ直径28m)を請け負ってしまったのである。本当に造ることができるのか。

 注文者の前では凛としながら、日夜、不安と恐怖におびえた。長兄卯助は霊台橋の工事が始まると、神仏の加護に頼らなければ平常心を保てなかったそうである。
***************************************************** おわり ************

 あまりにも橋が低い。保之助は、あてがはずれた。はたと困ったが、もともと見聞の広い保之助が、各地にある吹上樋を思いつくまでに時間はかからなかった。情報を集め、現地におもむき調べたところ、板や竹、石で作った吹上樋の実例がいくつかあった。




 第三節 吹上樋(ふきあげどい)

 なかでも、300haの水田を養っている廻江(まいのえ:現在の富合町廻江)の吹上板樋は、その仕組みがよく理解できた。75cm角の箱型の樋で、落込み 2.7m、長さ34.6m、吹上げ1.8mというものである。保之助は嘉永4年10月、さっそく轟川で実験してみた。 82cm角の箱型の樋を厚さ4.5cmの板で作り、90cmごとに木の補強枠で周囲を締め万全を期した。落込み落差は3mである。

 白木の立派な板樋が完成した。吹上口からとうとうと溢れる水を思い描き、水を注いだ。が、息を呑んで見守る間もなく、いともあっさりと吹き破れてしまった。見事なほどに、まったく参考にならない。水圧のすさまじさを、はじめて知った。

************ おはなし 2***************************************************
    廻江の吹上樋の内径75cm角の断面積は0.56平米(平方メートルの略)。白糸村に100haの水田を開くためには、その3分の1でよい。計算する とその内径は43cm角なのだが、廻江の吹上樋よりはるかに大きな断面積で実験している。充分過ぎるほどの水を通したかったのだろうが、少々無謀だったよ うだ。

 廻江の吹上樋は、水圧がかかる部分の箱樋が土の中に埋もれていたはずである。露出させた上、薄い板で実験したということは、失礼ながら当時、水圧の概念が なかったと思われる。その後、「こむかりせ(現称:こぶれがし)」という、人目につかない場所で実験をした理由がわからないでもない。
***************************************************** おわり ************

 翌年2月、笹原川の「こむかりせ」で、今度は板の厚さを7.5cmにして実験した。しかしこれも、8mほど吹上げたところで数箇所の板が破れた。その後、 どのような補強をしても木製の樋では無理な部分があり、石管に取り替えていった。溝を2列掘った土台石の上に、コの字型にくり削った石をかぶせて樋を作 り、漆喰でつないでもみた。しかし、漆喰は噴き出し、石管は割れたり、はずれたりしてしまう。

 先の見えない、あまりにも長く苦しい、しかも焦りをともなう吹上樋の試行錯誤が始まったのである。

************ おはなし 3 **************************************************
 ところでこの吹上樋を説明するために「サイフォンの原理」と「連通管の原理」が引き合いに出され、混乱している。

 「サ イフォン(siphon)」とは「液体を、水面より高い位置を通して、低い位置に移す為に用いる曲がった管」である。その運動を開始するためには、自然界 ではまず起こりえない人為的なエネルギーを要する特殊な構造である。その「サイフォン」の絵を上下ひっくり返して称した造語が「逆サイフォン」であろう。 その運動は自然界の力で自然に始まることが決定的な相違点であり、サイフォンの文字を使用する論理的な説明は難しい。

 仕切りのある浄化槽や、その昔の公衆浴場の原理は「連通管」であり、仕切の厚さが違うだけで通潤橋の吹上樋そのものである。この公衆浴場のしくみを「逆サ イフォン」というには無理がある。したがって理科の授業で習った「連通管」のほうが適切な説明用語だが、日本語としての普及度で劣る。

 最も単純な連通管の応用として、同じ高さを違う場所に移す「水準管」という測量用具があった。両端をつまみ上げたビニル管に水を満たすと、両端ともに同じ 高さで水が安定することを利用している。片方に水を注ぎ足すと、水は水平になろうとして反対側から溢れ出る。この「水準管(water leveling pipe)」を説明に用いたほうが、老若男女さらには外国からの観光客にもわかりやすいのではなかろうか。
****************************************************** おわり ***********

 くり抜いた石でなければ無理なようだ。枠になる部分の厚さを12cmにして中を四角にくり抜いた石管を作った。突き合わせたとき、継ぎ目に漆喰を詰めるための3〜4cmの穴ができるよう、穴の周囲に2cm程度の三角の溝を削りこんだ。

************ おはなし 4 **************************************************
  この溝の構造は、水道の蛇口の水漏れを防ぐゴム製の丸いパッキンと同じ機能である。石管によるこの方法が当時の日本のどこかに既にあったとすれば、漆喰の 配合などはそのまま模倣したはずであるが、手探り状態から始めている。最近の漆喰修理工事のときも参考にされていない。たぶん国内では初めての工法だった と考えられる。
******************************************************* おわり **********

 が、これもうまくいかない。穴に詰めた漆喰がすぐ乾き、隙間ができて水が漏ってしまうのだ。石管の継ぎ目の穴に詰める、材料と方法に悩まされることになっ た。水が水平から上向きに吹上げ始める位置の前後では、板樋も石管も頻繁に破損する。樋の板も、9cmの厚さに替えた。水圧があまりかからない部分も、補 強枠の間隔を45cmと、これまでの2分の1に縮めた。それでも板は弓のように曲がり、水は板目を伝って染み出すありさまである。水圧の高い区間はすべて 石管に替え、枠の厚さはこれまでの2倍以上の30cmにした。

************ おはなし 5 **************************************************
  通水内径は徐々に小さくなっていったが、最終的に通潤橋で使用した石管の通水内径は30cm角である。その断面積は0.09平米。300haを養う廻江の 吹上樋の断面積が0.56平米だから、ほぼ6分の1である。石樋1列で50ha、2列で100ha、3列では150haを養えることになる。合計3列のう ち、修繕のために1列を止めても、残り2列で充分な水を通すことができる。水路を3列にした根拠として、格好の目安ではなかったろうか。
***************************************************** おわり ************

 石管の継ぎ目の穴には、焼いた鉄の棒を20回ほど挿し込んで水分を取り、温度差を少なくし、溶かした鉄を流し込んでみた。熱が冷めると縮んで隙間があくの で、塩水などでサビを出し、漏れを止めたりもした。あらゆる方法を試み嘉永5年3月、落差12.7mの吹上樋がかろうじてできた。水の力には、ほとほと恐 れ入った。

 成功はしたものの、先々のことを考えると落差が大きすぎる、という意見が強かった。宇一・丈八とも相談した結果、アーチを大きくするしかなかった。水面か ら3.6m上がった左右岸の岩肌を切り込み、霊台橋とほぼ同じ28.2mのアーチを採用することにした。これで吹上樋の落差は少なくなり、それだけ樋の安 全性は高くなるが、橋は大きくなり、費用も膨れ上がる。しかし、どうにか架橋の目処はついた。

 宇一はアーチ直径18.2mなら請負うといったのだが、嘉永5年2月に眼鑑橋の図面を添えて藩に提出したときの直径は21.8mに変わっている。しかし同 年10月には、直径を27.3mとして申請するなど、計画は混乱を極めていた(しかも実際の通潤橋は28.2〜28.3mである)。

 さらに、石樋でなければ通水できないことを確信しながら、板樋を採用するかのような文書が飛び交っており、非常に曖昧である。吹上台眼鑑橋の予算は当初の 三倍にもなりつつあり、財政難の肥後藩が許可できるような、納得のいく計画にはほど遠かったようである。ところが嘉永5年11月、常識では考えられないこ とであるが、着工の許可を得た。

************ おはなし 6 **************************************************
  試行錯誤の中で藩に図面は出したものの、重大な変更が次々と発生していた。着工間際になって橋のサイズが変わったこともあり、要所は霊台橋に倣っていて、 輪石は霊台橋のサイズをそのまま採用している。直径もほぼ同じであるから、輪石や支保工に関しては完成して間もない霊台橋の仕様を、そのまま利用した可能 性がある。

 宇一・丈八にとっては経験のない鞘石垣と、それをどのようにアーチへ取り付けるか、が技術上の最大の課題であり、サイズ変更による再計算などに忙殺されて いたと考えられる。アーチの直径を、霊台橋より少しだけ短くするゆとりなど、あったのだろうか。通潤橋のアーチの基礎は石垣に隠れているので、完成後に直 径を実測した人はいない。

 可能性として、通潤橋と霊台橋のアーチの直径は、まったく同じ大きさである。
************************************************** おわり ***************




 第四節  材料の調達

 五郎ヶ滝の滝壷には、侵食に耐え残った強固な岸壁があり、見事な柱状節理が姿を現している。保之助は吹上台眼鏡橋の石材として適切で充分な原石が在ると考え、滝壷より上の河床の岩盤を、主な採石場として選定していた。

 嘉永5年、暮れも迫ってようやく会計・庶務・測量などの責任者が正式に決められ、大工や石工たちもそれぞれに分担された材料の手配に奔走した。

************ おはなし 7 **************************************************
  五老ヶ滝の上流の岩盤に点々と矢穴(石を鉄のクサビで割るとき穿つ、連続した穴)がある。その位置から推測すると、現在50mといわれる五老ヶ滝の落差 は、通潤橋の工事以前は5m程高かったことが考えられる。通潤橋の下流をより低くすることは、結果として洪水のとき、水を早く流下させる目的も併せ持つ。

 ところで、昭和58年に轟滝のすぐ下流の轟橋が改築された。そのとき橋脚の床堀の底から石管が出てきた、という建設業従事者の証言がある。深さは3m以上 あったという。轟滝の落差が2m程度だとすれば、5mほどの岩盤の厚さがあったことになり、ここも採石場だった可能性は高い。矢穴も残っている。創建当時 の残材か、後世に修理のために作ったものかは不明であるが、石管が埋まっていたことは事実である。
*************************************************** おわり **************

 採石場からは、河床を運搬しなければならない。石材の種類は次の通りである。

「壁石:長さ90cm、55cm角以上」
「壁石:長さ75cm、51cm角以上」
「壁石:長さ60cm、45cm角以上」
「他 :長さ45cm、30cm角」
「輪石:長さ60cm〜2.7m、90cm×60cm」
「隅石:長さ1.5m、55cm角」
「樋石: 90cm角、厚さ60cm」

 これらの石を人力で運ぶ場合は、長さ4.5m、15cm角のヒノキを吊り棒として使った。カラムシ縄(=俗称ポンポングサという植物の繊維で作った)で石を吊り、前後を小丸太数本で受け、重さにあわせて4・8・12・16人と人数を調整し、肩でかついで運んだ。

 90cmを超える大きな石を運ぶときは、道の長さ約20mに対し31本の丸太を横に敷き、道幅1.5m程度の板を乗せ、その上に「ねこぶき(稲藁を叩いて作った縄で編んだムシロ)」を敷き、「八重南蛮(やえなんばん:多重にした動滑車)」でひいた。

 便利だったのは「午(うま:二股の木で作られた修羅のようなもの)」と呼ばれる運搬具だった。「神楽桟(かぐらさん:垂直の大きな丸太の心棒の上部に小さ な棒を数本通し、数人で同じ方向にその棒を押して、心棒を回し、縄を巻き取っていくウィンチ)」で、数トンもある石を載せた「午」をひいた。そのほか「六 つ車」という車輪のついた午も使った。
あらゆる運搬方法を試してみたが、最終的には木の棒を肩に掛け、人力で石を吊るして運ぶ方法が最も確実だった。

************ おはなし 8 **************************************************
  ありとあらゆる合理的な運搬方法を模索したようである。動滑車を使ったクレーンの原型のような作業をしているので、現在でいう「索道:ケーブルクレーン」 にも考えが及んだかもしれない。竣工記念に保之助が植えたという杉の木が、非常に微妙な位置にあるのだ。この杉の木は、右岸の御小屋の横に3本立っている が、反対側の左岸にはない。しかし、通潤橋竣工百年祭に井上清一氏(郷土史家:矢部町)が著した記念誌の4ページには、樹齢百年ほどに見える杉の木が立っ ている。同時期に記念撮影された写真も見つかった。後世の修理のために、通潤橋をはさんで両岸に植えたのではないか、と考えられるのである。川底まで持っ てきた交換用の新しい石管を、橋の上まで索道で吊り上げて載せるためには納得できる位置にある。

 保之助の智恵の買いかぶりすぎ、考えすぎとは、どうしても思えないのである。
************************************************** おわり ***************




 第五節  基礎

 現地は両岸とも岩が露出しており、川底から3.6mの高さをアーチの基礎として削り込む。当然ながら最も川幅が狭い場所を選んだが、28.2mのアーチがかろうじて届く位置にしか岩盤がなく、輪石の根を据える位置を上下流にずらして調整する余裕などなかった。

 基礎となる岩盤の整形が終わると、左右岸の川底の岩盤から、川に面する鞘石垣が3.6mの高さまで積まれた。奥行き4m、幅18mほどのアーチの土台が両岸にでき上がり、輪石を積む準備が整った。

************ おはなし 9 **************************************************
  南手新井手記録の「再三願い奉る覚(嘉永6年3月)」の文中に「笹原川から橋までの水路は予定の半分ほど終わり、橋も根石をすえこみ、輪石も充分に切出している」といった内容が見える。

 ここでいう「根石」は鞘石垣の根石であると解釈できるので、3月になっても輪石(わいし:アーチを形作る石)はまだ積まれていない。当然、地橋(ぢばし:輪石を積むときの支えにする木製の台:支保工)にも着手していない。着工許可が前年11月なので無理もないが、工程は大幅 に遅れており、保之助は、いつか降る大雨を思うと、心中穏やかではなかった。布田翁の手記に「最も恐るるは、地橋(支保工)を梅雨までに取り除くよう普請 を急がねば、洪水の大難に遭う。寝食も安からず・・・」ことが記されている。

 時期をはずすと、雨が降るたびに命を縮める思いをしなければならない。地橋が流されるだけでも命取りだが、積みかけの多くの石が崩れ落ちて川をせき止め、上流の田畑に被害を与えることにもなる。急ピッチで水路の築造も急いでいた が、嘉永6年の完成は断念し、輪石を積むための地橋を、秋から開始することにした。
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 恐れていた大雨は4月(頃)(新暦では5月)に降った。根石が洗われ、川に面する鞘石垣の大部分が崩れ、流された。(五老ケ滝の滝壺に溜まった石材を調査すれば、裏づけまたは否定の根拠になるかもしれないが、なかなか実施できないものである。)

 根石のサイズが小さかったようであり、水の少ない日をねらって畳二帖ほどもある大きな石に積み替え、洪水に耐える頑丈な基礎に作りなおした。当然のことではあるが、地橋の着工は梅雨と夕立と台風を避け、二百二十日以降、嘉永6年秋に予定された。




 第六節  地橋(支保)と輪石

  嘉永6年9月下旬、川底に掘られた穴に柱が立てられ、下・中・上段の大梁を、柱と桁が支え上がっていく。傾かないように、上下流側から長い丸太の方杖で 突っ張られた。スジカイや、作業用の通路、ハシゴなどで蜘蛛の巣のような様相である。アーチの真下を支える柱の上端は、はずしやすいようにホゾ加工をして いない。アーチを形作る桁の上に根太(ねだ)が打たれ、厚い敷板(しきいた)がドームのように貼られた。高さ17.75mの、頑丈な地橋ができ上がった。

  いよいよ輪石の築造である。敷板に寄りかかるように輪石が積まれ、追うように裏築石、中詰め石、鞘石垣、壁石、と積み上げられていく。 輪石積みは、計算 どおりであれば要石(かなめいし:アーチの中央の石)1列分の据え幅が残るはずである。しかし、73列(実際には61列しか見えない)の輪石のそれぞれが たった1mmずつでも大きければ7cmほどの誤差となり、要石の据え幅は確保できない。あと10列ほどを残す段階になって、敷板の上で輪石の列を割り振 り、要石だけは、その両側に隙間が空くように計算された。アーチ最後の作業、クライマックスは要石である。が、いとも簡単に嵌め込まれた。予定どおり 3mmほどの隙間が両側に残り、まだアーチはつながっていない。

 石工棟梁宇一の合図を待って、地橋の責任者、大工棟梁茂助は、要石の真下に立つ柱列の上端を15cmほど切り取った。大工たちは中央から両岸に向け、1本 ずつ切りながら、支えの柱を緩ませた。左右から積みあがってきた輪石に、要石がいつのまにかピタリと付いている。嘉永6年11月(頃)、いちおうアーチは つながった。

************ おはなし 10 *************************************************
  「要石」について、多くの伝承がある。代表的なものの一つに、「敵の進路を断つために、要石を抜けば簡単に落橋するような細工」である。が、戦略的な意図 で作られたと伝えられる鹿児島の甲突川の石橋群に、特別な仕掛けはない。また、数本で構成されている要石は、1本抜いたところで石橋は崩れない。

 石橋を落とすだけなら、下から要石の列を押し上げるのが最も簡単である。橋の幅程度の大きな木の梁を要石の列の真下にあてがい、両端を支える柱の下に大き な木のテコを敷き、支点を作って大勢でコネ上げればよい。準備さえしてあれば、落橋させるのに30分もかからないだろう。
************************************************** おわり ***************

 輪石は四隅に荷重をかけて対角線の端が浮かないよう、ほぼ密着するように入念に詰まれていった。だが、要石に近くなると荷重をかけられず目視によって密着 具合を確認するしかなかった。要石をすえ込み、地橋を下げると若干ではあるがアーチも下がる。それまで正確に密着されてきた輪石には微妙に隙間ができてし まい、部分的に輪石がずり下がることがある。それを止めるために、アーチがつながった段階で背面を調査し、輪石と輪石の隙間に鉄のクサビなどを要所に入れ て固定した。

************ おはなし 11 *************************************************
  もう一つ、「要石を槌で叩き込んでアーチを緊張させる」という伝承がある。本当に叩き込んだ石橋の記録もあるようだが、ムチャな話である。というより、輪 石の重さと支え合う力に、人間の叩き込む力が勝るわけがなく、ムリだ、といえる。さらに、槌で叩く輪石の面は、後述する「柾目」である。叩けば叩くほど、 要石は垂直のヒビが入り易くなり、極端にもろくなる。

 また、いったん緊張したアーチに不具合があった場合、修正が効かない。要石をはじめ、輪石の一つひと つは石橋の中で最も丁重な取り扱いをしなければならない。「叩き込む」ことは、技術者なら考え及んではならない、最悪の工法である。
**************************************************** おわり *************

 大雨で水かさが増すと木で作られた地橋は浮き、下からの突上げに最も弱い要石付近に変形をもたらす恐れがある。最悪の場合、落橋する。アーチが完成したあと地橋を残しておくことは、百害あって一利なし。ないほうがよい。

 本来なら、ここで地橋をすべて解体してよいのだが、石樋の重さにアーチが耐えうるのかどうかがまだ懸念されており、そのまま残された。とはいえ昨年の春先には大雨の被害にあっている。いつまでも地橋を残しておくわけにはいかない。残る工事を急がなければならなかった。




 第七節  石組み

 ほとんどの石は、墓石のような直方体に加工して、板目に圧力がかかるように積んだ。また、石積みの作業中、他の石に当たって石の角を欠いてしまわないよう にしなければならない。75cmより大きい石は、すべての角を三角形に12cm削り、60cm以下の石は、7.5cm削った。

 鞘(さや)石垣が交差する角(かど)は長さ1.5mの石を互い違いに積む。すぐ裏の石は、表面に見える石の控え(壁の中に入り込んでいる部分)を下から支 えるように、裏築石として直方体の石で先に積んでおく。裏とはいえ、角で突き合わせず面で噛み合うよう、心血を注いだ。さらにその裏側の石はできる限り直 方体に近い、面や角のしっかりしたものを選び、ぐらつきがないよう充分に締めながら築いていった。同じく橋の内部の詰め石も、面や角のしっかりした大きな ものを選んだ。平面的にも立体的にも「乱積み(らんづみ:乱とはいうものの、割った石の自然な風情を重視した強固な石積みの種類であり、高度な技術を要す る)」にして充填した。橋の内部すべてに、石ではなく、石垣を詰め込んだようなものである。丸い石が見つかれば、すべて処分した。

 (裏築石は国内 の石垣積みのなかでも、通潤橋だけにしか採用されていないと考えられる。石垣を永久に修理しない前提で計画された、精密で高度な技術遺産である。鞘石垣の 隙間に細い棒を突っ込むと、ほぼ90cmの深さで止まる。表面の石垣の裏に、二重に石垣が存在するのかもしれない。点々と控えの長い壁石を用い、裏石垣と 接続させてあるのか。いずれにせよ、これほど補強した石垣の前例がない。通潤橋が解体されない限り見ることはできないので話題にのぼる機会も少なく、今後 の土木技術に大きく影響するはずの、その高い価値が惜しまれる。)

************ おはなし 12 *************************************************
   通潤橋に使用された熔結凝灰岩は、阿蘇山(阿蘇1期噴火:27万年前)から噴き出た火砕流が、熱いまま堆積して内部でいったん溶け出し、冷え固まったも のだとされる。

 重力で圧縮され、流れる方向に組成は引き伸ばされている。石材として使う場合、木材と同様、板目・柾目の見極めは重要である。実際の原石 は、長い間の地殻変動や地震による変位があり、また、あらゆる方向に亀裂が入っていて、柾目がどの方向に入っているのかを見極めることは難しい。割るなり 削るなりして、少なくとも隣り合う3面を確認しなければ、確定しない。実際にはノミで少し原石をはつり込むと、ほぼ3面が確認できるが、柾目が揃った石を 採り出すには、かなり大きな原石が必要になる。

 板目に圧力をかけてもなかなか形は崩れないが、柾目に圧力をかけると剥離し、崩れやすくなる。石積みは、柾目に圧力や衝撃がかからないように積まなければならない。
**************************************************** おわり *************




 第八節   鞘石垣(さやいしがき

 鞘石垣の勾配にはかなり苦心した。1.8mごとに勾配の違う10種類ほどの定規を作って丁張(やり方:基準となる直線の型板)とした。壁石側と河川側から 丁張に合わせて積んだ石の延長上で交差した点が、合成勾配として鞘石垣の曲線の基準となった。従って、鞘石垣の勾配は10箇所で直線が折れているのだが、 見かけ上、ゆるやかな曲線である。

 また、鞘石垣は力学的に高度な機能を持っていた。下部は勾配が緩く石の表面は上を向き、強い地震があった場合、上へ飛び出し、はらむ心配がない。また、斜 めに上がっていくので、真上からの石垣のすべての重さを受けない。真上の石垣は、裏で支える石に重さを伝え、さらに橋の内部の詰め石に伝え、重さを分散し ているのである。鞘石垣は上に上がるほど、勾配が立ってきて真上の石垣の重さのすべてを受けやすくなるが、そのころには上の石垣が少なくなる。実に見事な 構造である。

************ おはなし 13 *************************************************
   鞘石垣とは、通潤橋の上下流、左右岸の反り上がった曲面の石垣だが、「築石の長さ三尺につき尻を二歩太くした」ことが記されている。その原理は、輪石と よく似ている。アーチ構造であり、下向きか上向きかの違いだけである。橋の内部からの張り出し圧力をアーチで止めているのである。鞘石垣の石材は輪石のよ うに台形柱に正確に加工される。上下の石と面で接するので、スッポ抜けない、精細かつ高度な技術である。「土留めアーチ構造」とでもいえよう。

 したがって通潤橋の石垣には、石と石の間に大きな隙間がなく、小さな石を詰め込んだ箇所もほとんどない。参考にした熊本城の石垣を、はるかに超える築造計画がうかがえる。

最近の石垣は、石と石の間に隙間がほとんどない。石と石が隣り合う表面の線を合端(あいば)というが、鋭角に加工しておき、その先端を少しずつ修正して、隣 の石にピタリとくっつける。施工速度も早くコストもかからない。通潤橋より素晴らしい技術のように見える。しかし、上下の石が「面」ではなく「線」で接し ているので、上から予想を超えた力がかかると、合端が簡単に欠けてしまい、石垣は崩れる。地震にあえば簡単にずれる。空積み(裏にコンクリートを充填しな い積み方)の場合は決して行ってはならないが、よく見かける。戦後の経済復興の延長上で「さしあたって見ばえが良ければ、安いにこしたことはない」悪習が 続き、日本中が本物を見失ったままなのだろう。将来に誇れる本物の土木建築文化を取り戻すには、時間がかかりそうである。
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 第九節  釣石(つりいし

 釣石(つりいし)は、垂直の壁石垣が上下流側に崩れ出さないよう引っ張るために、壁石面3.3平米(1坪)あたり1箇所の割合で28ヶ所設置した。 45cm角で長さ1.2mの直方体の石を使用した。反対側の壁石まで5本ずらりと並べ、それぞれの鎖石の端から30cmほどの位置の表面に、直径9cm、 深さ6cmほどの穴を掘り、楕円球の鉄の塊(ダボ)をきっちりと嵌め込んだ。上から重ねる石は長さ90cmを4本。同じように穴を掘ってあり、鉄の塊に上 から嵌め込んで、隣り合う釣石と釣石をつないで固定する。20m近い高さで石を垂直に積む作業は心もとなく、つい前のめりになりそうである。が、釣石があ るというだけで心強さはまったく違った。

 順調に作業は進み、石管の基礎まで、壁石は積みあがった。中央の石管から土砂が出やすいように、両岸から 中央に向け緩やかな下り勾配をつけ、台橋の表面が仕上がった。この勾配は、石管と石管の間に溜まるであろう雨水の排水のためでもある。その流末である要石 の真上には、上下流に向け凹型に刳り抜いた排水溝を設置した。

 嘉永7年正月前、吹上台目鑑橋は、吹上樋を残してほぼ形が出来上がった。粉雪の舞う中、暮れの買い物客は、轟滝から五老ケ滝まで続く工事風景と台目鑑橋の雄姿に、一様に感嘆の声を漏らした。

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  藩に提出した仕法をもとに、宇一・丈八が緻密な計算をし、詳細な施工図面を描き、工程の計画を行い、留意点を記した結果は、文書として工事現場で活用され たはずであるが、そのすべては未発見である。意図的に処分されたのかもしれない。種山石工たちが死守したという秘伝の保護のために、残せなかったのだろ うか。

 と、ここまで書いたところで偶然にも、ある高齢の建設業関係者から問題証言を聞いてしまった。数十年前、白糸の小学校の図書室らしき部屋から、大量の毛筆 書類を2トン車で2台ほど、どこかに捨てた、という。誰かが引き取った様子もない、たぶん燃やしたのだろう。達筆らしき毛筆の文書には何が書かれているの かわからなかった、のだそうだ。どうしようもない事実であり、通潤橋や白糸の村々の生活に関する文書の多くが、この世から消えている証明でもある。
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 第十節  吹上樋の平面位置

  本来、吹上樋は通潤橋と平行に真っ直ぐにしたかったのだが、左岸側は堅固な地盤の尾根が上流にずれている。真っ直ぐにすれば宙に浮いてしまう。右岸側も上 流側に急斜面があり、堅固とはいえない。左右岸の石管は、両岸の地形に合わせて曲がらざるをえなかった。それでも左岸下流側は堅固な地盤に石管を乗せるこ とができず、石垣積みをして充分な裏築をほどこし、強固な基礎の上に石管を設置した。

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 「なぜ、3列の水路は両岸で曲がっているのか?」という観光客の疑問には、「最も水圧のかかる場所の流速を抑えるために、保之助はあえて石管を曲げさせた。」と答えることになっているらしい。が、この伝承も現在のところ裏づけが見当たらない。

 最も水圧がかかる場所に、さらに直進をさえぎるような抵抗を与えることは、構造上、非常に良くない。曲がった水道ホースが真っ直ぐになろうと、のた打ち回 るようなものである。石管が軽ければ、すぐに目地がはずれる非常に危険な箇所である。曲がった部分の石管は横に滑りやすく、強い横揺れ地震のあとは、集中 して大きな水漏れが発生する可能性が高い。石管の重さでズレをかろうじて食い止めている、非常にデリケートな部分なのである。土で埋めた理由の一つである かもしれない。

 という証明をしていくと、観光客に伝え続けられたこの伝承は、少々問題が大きく、頭の痛い話かもしれない。
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 さて、吹上樋の平面位置が決まった。表面を平らに加工した敷石で石管の基礎を作る。この畳石(たたみいし)は、石管の基準面となるものであり、非常に重要な工程である。

  土砂を掻きだすための点々と配置した木樋以外は、すべて石管にし、通水断面は30cm角に決定した。水が曲がる部分と水平な部分の石管は、枠の厚さが 30cm、外径は90cmである。水圧がかからない取入口と吹上口は枠の厚さを15cm、外径は60cmとし、徐々に大きくして連結することにした。

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 通潤橋完成後まもなく安政南海大地震が起きており、保之助が畳石にわずかのズレもないことを確認したという。畳石とは石管の基礎になる敷石であるから、それを簡単に観察できたということは、通潤橋の石管は裸の状態だったことになる。

 いつから石管の間に土を埋めたのかは不明である。大正13年に通水量が不足するというので、直径27cmの鉄管を下流と中央の石管の間に埋めた記録がある。痕跡もあった。自然物の中の鉄管に違和感があったので、埋めたのかもしれない。
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 第十一節  石管の並べ方

 手摺石(てすりいし)が上流と下流側の端に積まれ、転落の危険をなくした。

 地橋を解体する前に、すべての石管は橋上に運び上げられていた。最初に、放水口 となる中央の石管を据え、左右岸に向けて伸ばしていく。敷石に打たれた中心線の墨に合わせ、石管と石管を密着させながら据え込む。しかし、四隅がぐらつかず、水路の穴の位置をずらさず、石管をピタリと密着させることは、3次元ではなく4次元的な至難の業。保之助は水路の穴と漆喰孔の位置をずらさず、石管と 石管を密着させることを優先した。

 輪石と違い、石管の底は3点で接して安定していれば良く、四隅のどこかでぐらつく場合はワラ束を適量敷いて4点目を安定 させた。先に据えられた石管、もしくは次に据える石管の接合面と底面を、そのつど精細に仕上げながら据え付けるという、手の込んだ仕事が続いた。

************ おはなし 17 *************************************************
  「地震のときの緩衝材として、ところどころに木の樋を入れた」という伝承がある。これも、裏づけとなる資料などは見つかっていない。通潤橋仕法書には、 「樋の中に土砂が詰まるかどうか、どのくらいの量かは分からないが、念のため土砂抜き用の板樋を設ける」という意味のことが記されているだけである。
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 第十二節  漆喰(しっくい)

 架橋工事が進む中、吹上樋の試作をしてきた「こむかりせ」では、まだ実験が続いていた。水に流れず、ほどよい硬さで、乾燥してもひび割れにくく縮まない、 という理想の漆喰の完成にはほど遠かった。しかし、ついにその時がきてしまった。未完成ながら、これが最もよかったという配合と突き詰め方を整理し決定 し、本番を実施することになったのだ。その配合は次のとおりである。

 土は不純物の少ない良質の粘土を、乾燥させ、突き砕き、フルイにかけたものを五合。漆喰を作る50日前に焼いた石灰を二升。緑川と千滝川の合流地点付近くの砂州で採取した砂は、真の砂として水で洗いフルイにかけたものを、一升八合。塩は調理用の粗塩を一合。

  以上の材料を臼に入れ、よく撹拌し、松葉汁を少しずつ加えながら杵で搗き始める。松葉汁は、近くの赤松林から採取した松葉を細切れにし、充分に煮出して濃 くなった汁だけを使用した。程よい粘りが出たところで臼から取り出し、丸めて2日ほど寝かせ、再び臼で搗き砕いて日光に当て乾かす。それをもみ砕いて粉状 にしたものが、「漆喰」として現場に持ち込まれた。

************ おはなし 18 *************************************************
 詰めて間もなく水に触れても簡単に溶け出さない効果を出す材料は、漆喰の配合を見るかぎり、松葉汁しかない。松葉や枝に含まれる油分等(主にテルピン油)が水をはじき、固まっていない漆喰でも溶け出さないのだろうと考えられる。

  通潤橋の漆喰の材料には卵白が使われていた、と伝えられていて、これまでの修理工事にも使われてきた。残った卵黄は石工たちの栄養源として与えたとも伝え られており、つい納得してしまう。ところが平成12年、漏水修理が始まった直後、上益城地域振興局の工事監督員北山清人氏が、卵白の使用の裏づけがないこ とに気づいた。史実に基づいた漆喰を再現しようとして古文書を調査した結果、通潤橋仕法書だけにしか、漆喰の材料と製法は書かれていなかったのである。そ の材料は土、白灰、塩、真の砂、松葉汁の5種類のみである。「鶏卵半分」の文字はあるが、漆喰の大きさの目安としての記述である。
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 現 場では、石管と石管をつなぐ漆喰穴に、絶対に漏らない漆喰の詰め方を指導しなければならない。「手で握り締め、開いたとき三つ四つヒビが入るくらいの、ほ どよい湿りを持った漆喰を鶏卵半分ほど穴に入れ、花火の筒に火薬を詰める時のような要領(火術流星筒詰の仕法)で、70回ほど突き詰めなさい」という、恐 ろしく感覚に依存する手順が決められた。しかも、初めて体験する十人十色の性格を持つ作業者すべてが、その手順を確実に守って同じ品質の漆喰詰めができる ようにしなければならない。

 数十人が石管の周りに群がり、漆喰詰めが始まった。 石管には、漆喰を詰める穴が二重に掘りこんである。内側の穴に漆喰を詰めて水を通し、地震などで漏水する箇所が発生したら、外側の穴(用心穴)に漆喰を詰めて止水するのだ。

 これまでの実験から、漆喰は乾燥しすぎるとヒビ割れが避けられなかった。摩擦が大きい石管の中の、直径3.6cm長さ60cmから90cmのか細い円柱な のだから、乾燥して固まり収縮すれば、いたる所にヒビが入る。石管の漆喰詰めは、時間差をなくすために、できるだけ多くの作業員で進めなければならなかっ た。

************ おはなし 19 *************************************************
   石が伸び縮みすることをご存知だろうか。寒暖の差が特にひどそうな真冬の日を選んで、通潤橋の石管の継ぎ目を観察するとよくわかる。早朝、気温がほぼ4 度C以下の場合、水が漏れているところが点々と見える。昼間、気温が7度くらいまで上がると水漏れはピタリと止まり、夕方、気温が下がり始めると、また漏 れ出すのである。

 石より漆喰のほうが伸縮率は大きいのだが、通水して常に湿潤状態にある場合は、石のほうが温度に影響されやすい。平成12年の修理工事のとき、石材の試験 を行った過程で、溶結凝灰岩は1mあたり3mm程度伸縮することがわかっている。延長が127mほどなので単純に計算すると、1列で38cmほどの伸縮を することになるが、実際に動いている様子はない。膨張したときは、それぞれの継ぎ目がピタリと着き、石管自体が圧縮された限界状態で列が保たれていると考 えられる。
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 第十三節  初めての通水

 嘉永7年2月(頃)、一列だけではあるが、初めての通水試験をした。苗代の水を引く春先までに完成させることを目標に工事を急いでいたが、どうにか間に合ったようだ。

 中央の石管に取入口から水が注ぎ込まれた。かたずを呑んで見守る。しばらくして、石管のところどころに黒く水が染みてきたかと思うと、いたるところから水 が噴出し始めた。アーチの下から岩清水のように漏れ落ちはじめた。それでも石樋の中の水は流れているようだった。待ち受けている吹上口からは、ゴボン・ゴ ボンと水が石管の天井を打つ音が聞こえる。数分後、音がしなくなり、吹上口側の斜めの石管を、水が静かに登ってくる気配がしてきた。ほどなく茶色に濁った 水が音もなく吹上口から溢れたかと思うと、すぐに30cm角の水柱として力強く現れた。勢い良く吹き出した水は、吹上水槽に見る間に溜まっていく。歓声と 拍手が起こった。通水に成功したのだ。

 しかし、石管の継ぎ目のいたるところからは噴水のように水が漏れている。アーチ全体からは滝のように水が漏れ落ちている。いったん水を止め、中央の石管に 詰められた木の栓を抜いた。勢い良く水が噴き出し、上流側に黄土色のアーチを描き、ほどなく真っ白な水しぶきに変わった。再び歓声が起こった。漏水など、 どうでも良かった。水が切れるまで歓声は鳴り止まなかった。保之助をはじめ、誰もが生まれて初めて見る放水である。無理もなかった。

 放水口に木の栓が打ち込まれた。地震で漏れた場合の外側の用心穴だったが、すぐに使用されることになった。待機していた数十人の漆喰班が漏水箇所のすべて の用心穴に漆喰を詰める。再び通水した。やや治まったものの、アーチの下の漏水は止まらなかった。どういうことなのだ。漆喰の配合、練り具合、硬さ、詰め 方、どこに問題があるのか。

 目地穴に鉄を鋳込んだ箇所も漏れている。しかし漆喰と違い、鉄の目地は抜き取ることができず、石樋そのものを破壊して取り替えなければ、修復が不可能だっ た。目地の材料は、漆喰しかありえないようだ。だが、漆喰の質はさらに改良されなければならない。また、「こむかりせ」で通水した時の石樋の下は地面であ り、下に抜ける漏水の確認ができないため、修復の試行がなされていなかったことも、災いしたようである。

************ おはなし 20 *************************************************
  石管の底からの漏水は、通路に黒く染み出さないかぎり、発見するすべがない。敷石の継ぎ目を伝う、石管の真下への漏水は発見することができないのである。 現在でもかなりの箇所数があると考えられる。最下段の横穴のすべてに漆喰を詰めることで、見えない漏水をほぼ止めることができるが、冬季のツララの下がり 具合を見て、検討する必要がある。

 また、漏水の原因のひとつに、石管の上部が剥離するように割れているものが相当数ある。この原因については「凍り上げたものだろう」というのが通説であ る。熔結凝灰岩には軟らかいものから硬いものまで強度に開きがあるが、石管には軟らかい石が多用されている。この石管は、通水して1週間もすると全体が黒 く湿気を帯び、表面から水が染み出し始める。これが真冬に凍って割れるのだろうというのだが、理由はそれだけでもなさそうである。真夏の日射を受けた石管 が膨張し、限界ギリギリで隣り合うお互いを圧縮しあっていることは想像に難くない。押し割るということも考えられる。寒すぎるのも良くないが、暑すぎるのも石の剥離の原因であることは否めない。
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 第十四節   地橋の解体

 漏水は止まらないものの、石管はすべて橋上に設置されていた。重さによる台目鑑橋の変化が無いことも確認できた。また、目地に少しの隙間も許されないデリケートな石樋は、地橋を緩めるとアーチが少し下がり、目地がずれ、漏水がひどくなることもわかってきた。
目地詰めの試行錯誤を繰り返しているうちに冬が過ぎ、川の水かさが増してきた。昨年の春には、突然の集中豪雨で鞘石垣の根石を流されている。不具合な石管の取替えなど、橋上で衝撃を伴う作業がこれからもあるが、もう待てなかった。

 保之助は宇一と茂助に、地橋の撤去を命じた。宇一・丈八の架橋技術は世に名高い。地橋大工棟梁茂助の腕も信じている。とはいえ霊台橋とは違い、藩の重臣たち も心配した重い石樋が、この橋の上には載っている。大工たちは、びっしりと並んだ柱と梁を解き落としながら、橋が崩れ落ちはしないかという恐怖をぬぐえな かった。地橋は組み立てられたときのほぼ逆の順序で、7日間ほどかけて丁寧に解体された。アーチは全体が噛み合い、嘉永7年の春、台目鑑橋は完成した。

 抜けるような空の青に、巨大な力で静止している石のアーチは、神々しく美しく、真下から見上げようとする人間を荘厳に拒んだ。

 予想もしなかった半年間だった。苗代までに間に合わず、焦燥とともに数え切れないほどの通水試験と、漏水箇所の修理を繰り返した。さらに、三倍にも膨れ上がった架橋費用の責任を一身にかぶる保之助の強靭な精神力は、まさに神がかりである。
ツクツクボウシの鳴くころ、ついに1列だけ完全に漏水が止まった。これまでの、賽の河原のような試行錯誤の終わる日が、近づきつつあった。




 第十五節   竣工の日

 嘉永7年7月29日、通水試験が完了した1列だけ、お披露目の通水をした。周辺にふれてはあったものの誰も見に来ず、藩の工事関係者と作業員だけで行われた。当日は竣工式というわけでもなく、その後、数日おきに藩の重臣などが見物に訪れる程度だった。

  がしかし、残り2列の通水試験と漏水箇所の修理は、まだ続いていた。漆喰は、究極の完成を見ないまま、実用段階に入っていったのである。渡り初めは、のち に「通潤橋」の名前をつけた真野源之助が訪れた8月晦日に行われた。当日は、保之助とともに命がけの行政手腕を発揮した藩の郡代上妻半右衛門や、石工宇一 らも出席し、酒もふるまわれ、盛大なお祝いがあった。

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  通潤橋の完成は現在、嘉永7年7月29日として確定されている。が、南手新井手記録によると、その日は上記のように閑散とした様子で、何をもって完成の日 であるか、インパクトに欠ける。庄屋も保之助も出席しなかったという。完成の日の前夜、庄屋会議で安心しきって酒を飲みすぎ足腰が立たなかったなどという 戯れ話もあるが、何の裏づけもない。

 ところで旧暦の嘉永7年7月29日は、現在の八朔祭の日にかなり近かったのではないか。造形の巧みさを誇る八朔祭の大つくり物には、通潤橋築造の精神文化も受け継がれている。完成記念日も同時期にまとめて、充実した祭りに仕上げるのも一考か。
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 第十六節  通潤橋の生命

 あまりにも期待はずれで盛り上がりに欠く結末ではあるが、「通潤橋仕法書」を裏づける「南手新井手記録」の内容からすれば、ご容赦いただくほかない。

 しかし、こうして工程の一部始終を追うと通潤橋の工事は、吹上樋に始まり吹上樋に終わっている。通潤橋の価値は、橋そのものより水を通すことにある、といわれるように、石管と漆喰は、通潤橋の命を左右する、非常に重要な部品である。

 漆喰は乾燥するとヒビが入り、漏水の原因となる。アーチを形作る輪石が濡れて凍害を受けると、亀裂が入ってもろくなり、風化が加速される。輪石がぼろぼろになれば、通潤橋は崩れ落ちる。

 漆喰の湿潤状態を保つためには常に石管の中に水を通しておかなければならない。しかし、厳寒時には石管に浸み込んだ水が石管を凍り割って漏水が始まる。放水口の木栓は完全に水を止めることが難しく、要石を中心に輪石が濡れ、凍害を受ける。

 冬は水を通さず、夏は少々の水漏れがあっても使用するという考え方をすべきなのか。

 水を通すために生まれた通潤橋の命を縮めるものは、皮肉なことに水なのである。




 第十七節  本物の宝

 素材は近くにある自然のものであり、公害もなく、静かに矢部の山里の風景にとけ込んでいる。その姿は、現代技術が到達できない「簡素の美」そのものであ り、かつ、半永久の命を持つ、土木建築構造物の究極である。装飾がまったくない。これ以上は簡素化できない。最低限の物理機能の組み合わせだけで、「美」 を見事に創り出した。通潤橋を移設したり解体したとしても、材料はすべて再利用できる。環境問題に人類が気づく前に、周囲に何の悪影響も与えず、全く無駄 の無い社会資本のお手本が、百五十年前に造られていたのである。造ろうとした動機と、完成までの幾多の苦難の克服を含めて「本物とは何か?美しさとは何 か?」の模範解答が、私たちの目の前にある。

 NHKの名アナウンサーだった鈴木健二氏は、熊本県立劇場の館長時代に「通潤橋は民主主義を形にしたものである」という至言を残している。通潤橋は、苦し む白糸の里人のために、行政を含む矢部郷のみなが力をあわせて造りあげた。その精神文化は矢部郷の里人に、確実に引き継がれている。数ある世界遺産には、 このような助け合いの精神で造られたものが、極めて少ない。欲望による、覇権・名誉・戦争に類する動機で造られた世界遺産が顕彰され、引き継がれている。 地球の将来をになう子供たちに、これが私たちの祖先が創った、いつまでも大切にしなければならない、本当の、本物の宝だよと、教え導いてよいものか。

 現在の世界遺産(文化遺産)の登録基準は

1 「人間の創造的才能を表す傑作であること」

2 「ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に大きな影響を与えた人間的価値の交流を示していること」

3 「現存する、あるいはすでに消滅してしまった文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること」

4 「人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関するすぐれた見本であること」

5 「ある文化を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地利用の一例であること。特に抗しきれない歴史の流れによってその存続が危うくなっている場合」

6 「顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは   文学的作品と直接または実質的関連があること」


 
とある。しかし、世界遺産たるもの、それだけでよいのか。願わくは、7番目に次のような内容の基準を追加していただきたいものである


『地球環境および人類の将来に、極めてすぐれた影響を与える精神文化を内在すること』


 人類が戦いや殺戮をやめることができない今、世界中の人が歩むべき未来を指し示す「道標」として、通潤橋が地球人類の生き方に与える価値は、はかり知れない。

 布田保之助翁の、人類愛と叡智、不屈の精神に畏敬を表し、この章を閉じる。




※ 本章で使用した西暦の元号対比
弘化4年(1847年)、嘉永4年(1851年)、嘉永5年(1852年)、嘉永6年(1853年)、嘉永7年=安政元年(1854年)、安政2年(1855年)、大正13年(1924年)、昭和58年(1983年)、平成12年(2000年) 



平成16年10月26日 現在